京都に息づく幕末ゆかりの史跡
京都・洛中の史跡はどうしても「跡碑」が多くなります。
しかし、その地に息づく幕末のエピソードは数多くあります。
京都に息づく幕末ゆかりの史跡紹介を、エピソードをまじへてご案内していきたいと思います。
幕末のはじまり
幕府の三大改革の最後、天保の改革は幕府権力の強化を図ろうと天保12年に始まりましたが、成果を得られないまま老中水野忠邦は2年ほどで失脚。
改革の失敗により、幕府の権威は失墜。諸藩も藩政改革に乗り出し一定の成果をおさめることで、藩の自立運動を促進するもので、幕藩体制強化とは反するものでした。
この天保時代こそ、幕藩体制崩壊への転換期となり、幕末の始まりとなりました。
「武市瑞山先生寓居之跡碑」「吉村寅太郎寓居之跡碑」
三条大橋西詰め、高瀬川にかかる三条小橋を渡らずに木屋町通りを北へ曲がると、道はゆるやかにカーブする、そのカーブの付け根、向かい側にかかる橋が姉小路橋、手前の木屋町側に料亭「金茶寮」があります。
入り口に「武市瑞山先生寓居之跡」の碑、隣に「吉村寅太郎寓居」の碑が立っています。
「金茶寮」は幕末には料亭「丹虎」として登場します。その離れ三畳の茶室が武市半平太瑞山の住まいでした。
瑞山と坂本龍馬は親戚関係であり、あだ名で呼び合う幼なじみでした。
半平太は25歳で一刀流の道場主になるほどの実力の持つ主で、画才もありました。180センチの長身で、真面目、融通のきかない頑固者でした。
大石弥太郎から招かれた半平太は江戸で桂小五郎、高杉晋作らを紹介され、特に久坂玄瑞とは意気投合し、刺激を受けました。
文久元年8月「土佐勤王党」を結成するも、土佐藩参政吉田東洋の反発にあい、前へ進まない苛立ちから、文久二年4月8日、吉田東洋暗殺という強硬手段に出たのです。
暗殺後しばらくは勤王党の思いどうりに事は進んだが、藩主山之内豊範の父容堂が江戸から帰ると急変、勤王党の仲間は投獄、切腹されていく。
半平太も投獄され、二年間投獄生活の後、慶応元年5月11日に切腹となりました。
吉村寅太郎は土佐国高岡郡芳生野村の庄屋、吉村家の長男として生まれた。
土佐勤王党に参加したのち脱藩して上洛、尊皇攘夷運動に加わった。
寺田屋騒動に関与していたため土佐へ送還され、文久3年、3年間の遊学の許可を得て再び京都へ。
その時、この地に住んだ。8月に攘夷祈願のための大和行幸の詔勅が発布されるやいなや、藤本鉄石、松本奎堂とともに天誅組を組織。
自ら指揮して大和五条(現・五條市)の代官所を急襲するが八月十八日の政変で一転逆賊となり、鷲家口で戦死する。
半平太と寅太郎にとっては、ここ木屋町にいたころが束の間の満たされた時期であったのでしょうか。
「本間精一郎遭難之地」「岡田以蔵の刀痕」
越後出身の勤皇の志士・本間精一郎は、文武に優れ尊攘派の中でも急進派として活躍した。
しかし、彼の人柄が災いした。弁は立つがはったりも多い。スタンドプレイも巧い。金使いも荒く酒色の日々。志士仲間に評判が悪く、結局スパイだと誤解されて狙われた。
文久2年8月21日、夜9時過ぎ、雨の中をさして木屋町三条から先斗町に入る時。本間は「つけられている」と感じた。
危険を感じた本間は、敵をまくつもりで近くの店でしばらく時を過ごした後、先斗町を駆け抜け道幅の広い木屋町に出ようと「瓢箪露地」とよばれる一本の細い抜け路地を西に飛び込んだ。
木屋町通りに殺気あふれる三人の影、振り返ると後ろにも三人の。包囲された。
狭い路地で乱戦、一人ずつしかせめて来られないので、本間には有利に見えたが、激しい打ち合いひ本間の刀が折れ、小刀を抜く間もなく切り伏せられ、路地から木屋町に出て雨の中、本間は息絶えた。
暗殺者は、田中新兵衛、岡田以蔵、平井収二郎、広瀬友之允他といわれている。
その本間精一郎遭難之地碑の南側に、東に伸びるのが「瓢箪露地」があったが現在は行き止まりになっている。
北側の民家に「岡田以蔵の刀痕」が、今も生々しく残る。
「土佐藩邸跡」「土佐稲荷岬神社」
土佐藩京都屋敷跡の碑は、木屋町蛸薬師の高瀬川に掛かる橋のたもとに建つ。
すぐとなりに廃校となった旧立誠小学校小学校がある。この小学校の南東端、木屋町通りをはさんだところに本間精一郎遭難之地の碑が立っている。
このあたり一帯が土佐藩邸跡です。
文久2年2月22日、坂本龍馬は京都の土佐藩邸に自首。勝海舟の働きで脱藩罪赦免の内諾を得ていたが2月20日正式に決定しました。
そこで形だけの自首をし、藩邸で七日間謹慎後、土佐藩士に復籍しました。
じっとしているのが苦手な龍馬にとってこの謹慎は耐え難い苦痛であり、世話役の望月清平(亀弥太の兄)に八つ当たりしたという。
身の危険は少なくなりますが、束縛の嫌いな龍馬にとっては、どうでも良かったが、龍馬の身を案じる多くの人たちは一安心でした。
しかし、この藩邸には良い思い出がないのか、龍馬はあまり寄りつかなかった。
土佐藩邸跡の碑、蛸薬師通りをそのまま西に10メートル程行くと、土佐稲荷岬神社があります。
この神社はもともと土佐藩邸内に鎮座していたもので、当時から地元の信仰が篤く、土佐藩は地元町民の参詣のためにと抜けを許したちいわれます。
維新後、屋敷売却の時に、一時すく南の下大阪町に移されたが、初代の近江屋新助が土佐藩用人邸を買い取り、遷座しました。
現在の社殿は大正2年に建立したもので、宮司は八坂神社の宮司が兼任しています。
神社には、坂本龍馬の小さな像もある。
(土佐藩邸跡碑:京都市中京区木屋町通蛸薬師下ル下樵木町)
(土佐稲荷岬神社:京都市中京区蛸薬師通河原町東入備前島町)
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