京都に息づく幕末ゆかりの史跡
京都・洛中、会津藩京都守護職にまつわる史跡も、魅力的な地域です。
文久2年8月、京都守護職に任じられた会津28万石藩主、松平容保が11月24日に入京。慶応3年、15代将軍、徳川慶喜が大政奉還を行うまでの間、京都で治安維持にあたった。
京都・洛中、その地に息づく幕末のエピソードは数多くあります。
京都に息づく幕末ゆかりの史跡紹介を、エピソードをまじへてご案内していきたいと思います。
○金戒光明寺と会津墓地
会津藩主、松平容保が藩士1000人と共に入京し、まず宿舎にしたのが「金戒光明寺」です。
会津藩の隊規の整った堂々とした隊列は、幕府に批判的だった町衆も、会津藩なら町を静かにしてくれるかも、と思いました。
三条大橋を渡って京に入った容保は、寺町今出川下るの本禅寺に入り、礼服に着替え、近衛関白邸に天皇のご機嫌を伺った。その後に宿舎である金戒光明寺に入っています。
この、節を守り礼を尽くしたことが、いっそう朝廷にも町衆にも好感を与えました。
それから一年間、現在の京都府庁が建つ下立売通りの烏丸と堀川の真ん中あたりに移るまで、金戒光明寺が京都守護職の本拠地になりました。
文久3年8月18日の薩摩藩、会津藩が中心とした公武合体派が長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件を期に、目まぐるしく変わる情勢のなか、京都守護職はここから出動していた。この政変から薩長間の確執が始まりました。
同じころ、壬生浪士組が誕生し、8月18日の政変の時、会津藩の別働隊として御所の警護にあたった功績で新選組の名をいただいた。
この名は、天明8年会津藩主の親衛隊のなかから選りすぐりの藩士子弟たちの一団につけられた由緒正しい名前で、生粋の武士と、武士にあこがれた侍百姓、会津と新選組には純粋に武士道を奉じるという共通点があったのではないでしょうか。
「ああ真如堂、ここらで一服永観堂、飯、黒谷さん」と京童に唄いはやされる黒谷。浄土宗大本山「金戒光明寺」は地元の人には「黒谷さん」と呼ばれています。
金戒光明寺の墓地は黒谷墓地と呼ばれ寺の北東に存在します。そこに、会津墓地と呼ばれる静かな一角があります。
幕末の露と消えた人々、尊王・佐幕どちらであっても、彼らの熱い気持ちがあった。その彼らの熱い気持ちに合掌する人々が多く訪れる聖地でもあります。
○京都守護職屋敷跡
京都守護職着任の翌年、黒谷金戒光明寺宿舎が狭くなったため、現在の京都府庁のある千本通り下立売通り北角に会津藩屋敷を建て、引き続き京都守護職屋敷をその東に建てた。
その後、元治元年丸太町通りまで広げた。
明治18年以降ここに京都府庁が置かれています。現在の京都府庁は明治37年、守護職上屋敷跡に建てられました。
ルネサンス様式の旧本館が威厳を見せる敷地植え込みの中(南東 門を入った右手)に、石碑が立っています。
また、丸太町通りに近い添屋敷跡には、病院などが建てられています。
☆旧京都守護職屋敷門
岡崎・平安神宮の西側。京都市武道センター(旧武徳殿)の敷地南側、冷泉通りに面したバス駐車場の奥に京都守護職屋敷門が残されています。
☆旧京都守護職屋敷正門
旧京都守護職屋敷正門は二条城前の国際ホテルの裏手、油小路通り側に移築されていたが、現在は国際ホテルが廃業し、正門の周りはフェンスに囲われていて見ることができない。残念の極みです。
(旧国際ホテル:京都市中京区土橋町 2016年1月現在はフェンスに囲まれています。)
この辺りが越後福井藩の屋敷跡で、二条城は目と鼻の先にある。藩主松平春嶽は幕府政治総裁職を務め、改革派としても名高かい。
坂本龍馬もたびたび福井藩邸には足を運んでいる。
東堀川通りに面したところに福井藩邸跡の碑と安政の大獄で処刑された橋本佐内の寓居跡の碑も建っていたが、同じくフェンスに覆われて見ることができません。
○京都に息づく幕末ゆかりの史跡「武市瑞山先生寓居之跡」「岡田以蔵の刀痕」「土佐稲荷神社」他 編→
○京都に息づく幕末ゆかりの史跡「寺田屋事件」「大黒寺」「伏見薩摩藩邸」編→
○京都に息づく幕末ゆかりの史跡「翠紅館」「清龍寺」「明保野亭」「高台寺月真院」編→
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