スポンサードリンク

私の京都散策「壬生の新徳禅寺、前川邸、八木邸、不動堂の新選組壬生屯所めぐり」

新選組壬生屯所めぐり

幕末の治安が悪化した京都を守ろうと、近藤勇、土方歳三が中心となって結成された「新選組」。数々あるエピソードは伝説となり京都・洛中の地では今も人気スポットとして多くの人が訪れます。

今回は、京都・壬生の新選組壬生屯所めぐり、ファンを魅了すゆかりの地です。

新選組みが誕生したは、文久2年(1862)。

庄内藩の郷士出身で尊皇攘夷の急先鋒、清河八郎が攘夷をとなえる浪士の扱いに困っている幕府に取り入って、浪士隊結成を募集しました。

清河が朝廷に対して攘夷を誓言したことから、幕府は手をやく攘夷論者を集めた浪士組を結成する清河の策をむげにできなくなりました。

文久3年2月23日、集まった浪士234名と共に、将軍家茂の上洛警護先見隊として京に入りました。

○新徳禅寺 -新選組宿舎-

京都到着の夜、宿舎となったのが「新徳禅寺」です。

新徳禅寺

新徳禅寺

清河八郎は全員を集め、「われわれの目的は天皇の仰せに従い攘夷の先駆けとなる。将軍の警護ではない。」と言いました。浪士たちも驚いたが、江戸の幕府も驚いた。清河は宮中へもこの旨を示し、関白から天皇もお喜びとの返事をもらっていた。

幕府は急遽浪士隊の江戸復帰を命じ、江戸帰還を拒否した芹沢鴨、近藤勇を含む13人を残し、清河は浪士と共に江戸に帰りました。

この舞台となった「新徳禅寺」は壬生寺の直ぐ前です。

浪士隊の宿舎は、本部の「新徳禅寺」のほか地元の郷士、寺、民家など10ヵ所ありました。

郷士である八木源之丞とその向の前川荘司の宅は今も残されています。

八木邸に泊まった13人が京都に残る。その13人は、江戸士衛館道場近藤勇ら8人と、水戸藩脱藩浪士芹沢鴨ら5人。彼らは京都守護職松平容保に、京での将軍警護を嘆願し認められ、身分も「松平肥後守御預」となり保障されました。

この13人で新選組を結成するが、近藤派と芹沢派の溝は埋まらず、芹沢派5人を抹殺することとなりました。

○壬生寺 -新選組ゆかりの壬生塚-

壬生寺

壬生寺

新選組が来たころの壬生村は壬生菜(京野菜)畑ばかりの田舎でした。

そこのある「壬生寺」は、正暦2年、園城寺(滋賀県・三井寺)の快賢僧都によって創建されました。

境内には「壬生塚」と呼ばれる新選組隊士の墓がある。局長・近藤勇の胸像と遺髪塔、土方らに暗殺された芹沢鴨と平山五郎の墓などのほか、池田屋事件で亡くなった隊士の合祀墓も立っています。

壬生塚

壬生塚

八木邸の屯所に近いこともあり、境内は新選組の兵法・武芸の修練場に使われ、大砲の訓練も行われていました。

一方で、沖田総司が子どもたちと遊んだり、隊士が壬生狂言を楽しむ和やかな場面もあっり、新選組が境内で相撲興行をしたという記録も残っています。

○前川荘司邸 -新選組宿舎-

前川荘司邸

前川荘司邸

四条坊城から坊城通りを南へ、最初の交差点綾小路の角に前川邸があります。

新選組の隊士が出入りした長屋門が当時に近い姿で残されており、中には刀傷も残っています。

当時の前川邸は十畳間が10以上あり、勝手口から裏庭へ馬4頭が並んで入れられたといいますから相当立派な館でした。

長屋門の中の正面に本宅があり、その屋根のゆるやかな勾配は京都の町屋独特の美しいフォルムです。

○八木源之丞邸 -芹沢鴨殺害の場-

八木源之丞邸

八木源之丞邸

前川邸の直ぐそばに八木邸があります。


=========================================
<スポンサードリンク> =========================================

八木邸は幹部の宿舎として使われていました、

門から道はまっすぐ裏庭へと続く勝手口に向かっています。

門を入ってすぐ右に玄関があり、中は坪庭を囲んで部屋があります。

庭に面した一室の入口の鴨居に、芹沢鴨暗殺の時についたといわれる刀傷が残されています。

前川邸、八木邸、どちらも民家であり、当時壬生の狼といわれた新選組の世話も大変でしたが、意外にも家人や近所の人たちの評判は悪くなかったようです。

女性ファンの多い沖田総司もニコニコした人なつっこい青年で、よく冗談をいい、近所の子どもたちと一緒に壬生寺や家の前で、鬼ごっこや隠れんぼをしている姿が沢山の人の記憶に残っています。

○西本願寺 -新選組屯所-

西本願寺 太鼓楼

西本願寺 太鼓楼

慶応元年3月15日、新選組は壬生から西本願寺に屯所を移しました。

200人近くになった新選組は、もう壬生には収まりきれなくなりました。そこで目をつけたのが西本願寺の本堂北側にあった600畳の集会所でした。

ここは報恩忌などの際に全国の門徒が集会する場所で、平常は使っていない。それに尊王運動をする西本願寺の警戒をする、という名目で、幕府もそれを了承し移転が決定しました。

西本願寺に移転した新選組は調練と称して大砲を撃ち、勝手に大工を入れて炊事場、風呂、牢屋に首切り場まで参拝者から見える場所に作るなど、嫌がらせに近い問題を起こしています。

ついに寺は会津公用方に窮状を訴え「訓練はほかの場所で」の達示となり、訓練だけは壬生にもどり、再開されました。

しかしいつまでこの状態が続くのかと西本願寺は困り果てました。

現在、西本願寺には北集会所の建物はないが、北集会所の東あたりにあり、隊士の集合や訓練の合図に使われた太鼓楼は、西本願寺の北東角に当時のままで残されています。

○不動堂屯所 -新選組屯所-

不動堂

不動堂

そして会津公用方は、堀川木津屋橋南に一町四方の土地を確保し、新選組屯所の移転を求めることとなりました。

費用は会津藩持ちで、相当額は西本願寺が出したの思われます。

実は、土方の目的の一つは、新屯所移転に必要な立ち退き料を取ることにもあったといわれています。

新屯所は一町(約110m)四方約3700坪の広大な敷地で、大名並みの建物でした。

新屯所に移ったのは、慶応3年6月15日。この直後に新選組は正式に幕臣となっています。

新屯所建設に選ばれた不動堂村は、堀川木津屋橋南、現在は堀川通りに面して西側に建つリーガロイヤルホテル京都のあたりと思われます。

新選組最後の屯所も、それを偲ぶものは何も無く、堀川通りを東側に渡り一筋東の油小路通りに、村の地名となった不動堂が現存します。

幕末には今より敷地も広く、現在も北不動町、南不動町という名がそれを物語っています。

しかし、この新屯所の生活は短く、慶応3年12月16日、伏見奉行所に移り、18日後の慶応4年1月3日には鳥羽・伏見の戦いが始まり、新選組が京に帰ることはありませんでした。

<MAP紹介>

新徳禅寺
壬生寺
前川荘司邸
八木源之丞邸
西本願寺
不動堂

私の京都散策「池田屋、壬生、島原の新選組スポット」→

私の京都散策「魚三楼、御香宮神社、鳥羽伏見の新選組スポット」→

<スポンサードリンク>

このエントリーをはてなブックマークに追加
Pocket