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京都の魔界観光【洛西・洛南案内】

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京都の魔界観光【洛西・洛南案内】

京の都で「魔界」という言葉をいうとき、そこには特別な思いが含まれる。
怪奇幻想にみちた物の怪の跡、恨みを残して死んだ物の慰霊を祀る鎮魂の寺社、人々の憎悪の念にまみれた呪いの生霊の俗伝。
京都「魔界」にまつわる伝承の数々。今回は最終回、京都の洛西・洛南の地にまつわるお話です。

酒呑童子 大江山

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「酒顚童子」

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「酒顚童子」

酒呑童子と呼ばれる鬼の一団が根城としていた大江山は、京都に二つある。
一つは丹波と丹後の国境にある大江山(千丈ケ嶽)、もう一つが山城と丹波の国境の大江山(大枝山)です。今回は後者の大枝山の伝説です。

大枝山の山中には酒呑童子の首を埋めたとされる首塚大明神という神社があります。その昔、坂田金時(金太郎さん)が酒呑童子を討ち取り、首を都に持ち帰ろうとしたが、なぜか急に首が持ち上がらくなり、運ぶのを断念してこの地に葬ったらしい。
地元では、鬼を祀っているにも関わらず、首から上の病を治す神社として崇められています。また、大枝山では疫神の侵入を防ぐため四角四堺祭という儀式が行われたことから、酒呑童子は疫神とも言われている。

鬼の中でももっとも悪名高い酒呑童子。平安時代中期、一条天皇が在位のころ、丹波国の大江山に棲み付いた酒呑童子は都の内外で非道を尽くしていた。そこで朝廷は鬼退治を源頼光に命じた。源頼光は妖怪「土蜘蛛」退治で知られる武将である。頼光は、坂田金時、碓井貞光、卜部季武、渡辺綱らを伴い、主従山伏に扮して大江山に向かった。その道中、住吉明神、岩清水八幡宮、熊野権現の神々が翁の姿になって頼光らの前に現れ、鬼を退治されるための神変鬼毒酒(しんぺききどくしゅ)を授けた。翁いわく、鬼は酒が好きで酩酊転倒しているので「酒呑童子」といい、神変鬼毒酒を頼光たちが飲めば、童子の倍の力が付き、童子に飲ませれば毒となるという。
童子が棲む岩屋まで来た一行は、自分たちが鬼の仲間であることを告げ、岩屋の中に入ることに成功。そして翁にもらった酒を酌み交わし酔いつぶれたところを見計らい、退治した。頼光らは童子の首を都に持ち帰りその首は七条河原にさらされた後、現在の老ノ坂峠付近、大枝山あたりに埋めました。

酒呑童子の首を洛中に運び入れたか否かは諸説あるが、やはり最終的には老ノ坂峠付近に埋めたとされている。この辺りは、山陰街道の最初の駅で交通の要衝だった。また、歴史に残る戦国武将が通ったことでも有名です。一の谷の合戦の源義経、六波羅探題攻撃の足利尊氏、本能寺の変の明智光秀など、この地を経由して戦場に向かっています。
老ノ坂峠も自動車道が開通しもはや大江山(大枝山)を難所と思うことはないでしょう。

京都市西京区大枝沓掛町

愛宕山

愛宕神社

愛宕神社

怒りに燃えたような赤い顔、鋭く伸びた高い鼻、鋭く尖った口先、背中に生えた翼。
その奇妙な姿から時には妖怪として、時には神として、さまざまな伝説を持つ天狗はみんなが認める魔物です。

日本の名のある高山や霊山には多くの天狗が棲んでいると言われていました。
鞍馬山の僧正坊(鞍馬天狗)など、京都の天狗にまつわる伝説は多々あります。
そんな京都の天狗信仰の中でも古い歴史を持つのが、愛宕山の太郎坊天狗です。愛宕山は昔から火伏せの神様として尊崇を集める一方天狗信仰の拠点と言われます。

愛宕山は平安京の西方を守る霊山であり、山頂には愛宕神社が鎮座しています。愛宕山の天狗伝承の面白いところは、本来持つ火伏せの信仰と重なり合うところです。
安元三年、樋口富小路の民家で火事が起こりその火は風で北西の方向に拡がり、大内裏を含む京の半分を焼きつくした。陰陽師が占ったところこの火事は愛宕山の天狗の仕業であるといい、不思議なことに火は愛宕山方面へと拡がっていった。人々は天狗が火をつけて飛び去ったと信じ、この火事は「太郎焼亡(たろうじょうもう)」と呼ばれた。
語り継がれる、愛宕山の太郎坊天狗の魔力は都を守る神でもあるのか。愛宕山信仰は今でも多くの人々を集めています。

京都市右京区嵯峨愛宕町

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)

化野念仏寺

化野念仏寺

京都の西、小倉山東北麓一帯に広がる化野は、平安京の三大葬送地の一つでした。
鎌倉末期の歌人、吉田兼好が「あだし野の露消えぬ時なく、島部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかに、もののあわれもなからん」と徒然草に綴ったように、化野はこの世の無常を凝縮した空間でした。

そうした時代の面影を見る場所が化野念仏寺です。約八千体の無念仏が一帯を埋め尽くす光景は、生命の尊さを思わせます。
寺の縁起は、弘法大師が平安時代初期に建てた如来寺といわれています。当時は遺体を野ざらしにする風葬が一般的で、この地にも無数の屍が悲惨な姿で転がっていました。その惨状を見かねた弘法大師が供養を始めこれを機に、風葬から土葬へ変化しました。

弔いの方法が変わろうともこの地は人々にとって別離を悲しんだ場所であることは変わりなく、後に浄土宗の開祖、法然上人が如来寺を常念仏道場に改め、やがて念仏寺と呼ばれるようになりました。

今の形になったのは、江戸時代以降にこの付近から出土した石仏・石塔を明治中期に釈迦の説法を聞く衆生の姿になぞられて配置されました。それらの多くは室町時代のものとされ、その時期はちょうど太郎焼亡、次郎焼亡と呼ばれる平安京で起こった大火や応仁の乱の戦火が都を襲っている。つまり、石仏・石塔に宿るのは人災による理不尽な死を遂げた人の魂である可能性が高いようです。
無縁仏の精霊にロウソクの火を送る千灯供養は今も行われています。

京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17

伏見稲荷大社

右側通行

右側通行

全国約三万ある稲荷神社の総本宮。創建は平安遷都を遡る和銅四年(711年)とされ、最も古い記述が見られる「山城国風土記」逸文によると、渡来系氏族の秦伊呂具が、稲を積んで富み栄えたていたので、ある時、餅を的にして矢を放ったところその餅が白鳥となって山の峰に飛んで行き、その留まったところから稲が生えてくるという不思議な現象が起こったことで、その奇瑞によって「伊奈利(いなり)」と名付けられたのがはじまりとされています。
その後、後裔は先の過ちを悔いて秦氏は白鳥が舞い降りた山(稲荷山)全体を信仰の対象とし、稲荷神を代々丁重に祀った。山に対する信仰心は、山裾に社殿が建てられいるが、その背後に聳える稲荷山の山中にこそ、稲荷信仰の真髄は麓の千本鳥居もさることながら、更なる山深い御膳谷という谷筋ではおびただしい数の「お塚」が静寂の中で祈りの詞を奏でている。

稲荷神は五穀をはじめすべての食物を・蚕桑のことを司る神として信仰されていました。平安時代にいたり東寺(教王護国寺)の真言密教との関わりを次第に強め、このころから稲荷神は、農業守護のご利益のほか、富や権力を得て栄華を極めたいという人々の望みを叶える神と変化しました。今では、伏見稲荷大社のご利益は「商売繁盛」であるのは、密教の神・ダキニ天が猛烈な競争をきり広げた近世の商人たちから支持を受けたことにあるといわれています。
稲荷稲荷信仰と真言密教の間で共通するのが狐の存在です。狐は稲荷神のお使いとして境内のさまざまなところで見かけます。実は密教の曼荼羅に書かれるダキニ天が跨るのも狐なのです。古来狐は神秘的な能力をもつ動物とされています。密教の狐が稲荷信仰に結びついたものとは一概には言えませんが、稲荷信仰のさらなる大衆化を促したダキニ天信仰の影響を考えると、密教から狐が持ち込まれた可能性は否定できません。

今、外国人を初め、毎月1日の稲荷信仰の方など「お山めぐり」に多くの人が伏見稲荷大社の神秘性に見せられて訪れます。その代表的な風景である、山頂まで続く赤い鳥居のトンネル。応仁の乱後に再建された本殿裏から山頂まで続く鳥居の数は約五千基にも達しています。

稲荷神が鎮座する稲荷山の麓は数々の文化を育ん出来ました。地域の農耕や酒造の発展も伏見稲荷大社の恩恵といえます。熱心な稲荷信仰者でなくても、稲荷神の気配は暮らしの中に潜んでいます。「お稲荷さん」と親しみ深く呼ぶ習わしからも伏見稲荷大社は人々の願いに応える威光を放ち続けます。

京都市伏見区深草藪之内町68

帷子ノ辻

竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」

竹原春泉画『絵本百物語』より「帷子辻」

葬送の地へと続くいにしえの辻、現在は商店街が並び賑わう辻。
ここは平安京の街道の主要な分岐点で、東は太秦、北は広沢の池、北東は愛宕常盤、北西は上嵯峨野、西は下嵯峨野へ至り多くの人が行きかっていました(現在は京福電鉄嵐山線の同じく分岐点となる駅です)。また、同時にこの場所は平安京の葬送の地、化野への入り口でもあります。
その地名の由来は、嵯峨野天皇の后・檀林皇后(だんりんこうごう)の葬列がこの辺りに差し掛かった時、その棺に掛けてあった経帷子が、嵐でここに舞い落ちたという話が伝わっています(経帷子とは、白麻などで作られる死者に着せる着物)。

嵯峨天皇が寵愛した檀林皇后は大変美しく、日本で始めての禅院(檀林寺)の創建など、政治的にも大きな功績がありました。
皇后は多くの人々に慕われ、深く仏教に帰依していました。この世の諸行無常を自ら示し自分の遺骸を嵯峨野の原に打ち捨てるよう遺言をのこし、野ざらしにされた遺骸は日々無残なものへと化していきました。やがて白骨となり朽ち果てた檀林皇后の行いを目にした僧たちは、世の無常を心に刻み妄念をすて修行に打ち込むようになりました。

恐怖の中にも檀林皇后の信仰心が感じられるエピソードが、何の変哲もない「辻」にも潜むことが、いかにも京都らしさを感じられます。

京都市右京区太秦帷子ケ辻町30−3

洛中、洛東、洛北、洛西・洛南とご案内いたしました。
「京都の魔界観光」。京都にはさまざまな伝説を持ったスポットが沢山あります。
ぜひ、あなただけのスポットを見つけていただければ楽しい京都観光がもっと楽しくなると思います。

合掌

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