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京都の魔界観光【洛東案内】

京都の魔界観光【洛東案内】

京の都で「魔界」という言葉をいうとき、そこには特別な思いが含まれる。
怪奇幻想にみちた物の怪の跡、恨みを残して死んだ物の慰霊を祀る鎮魂の寺社、人々の憎悪の念にまみれた呪いの生霊の俗伝。
京都「魔界」にまつわる伝承の数々。その4回目は京都の東、洛東の地にまつわるお話をお楽しみください。

六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)

六道珍皇寺空海が師と仰いだ慶俊僧部、または小野篂の創建と伝わる京都最古の寺の一つ。冥界の入口、六道の辻に接していた。
小野篂(おののたかむら)。平安遷都後まもない延暦21年(802年)生まれ。漢文や和歌の名手で同時に、異能・異才というしかない霊力の持ち主です。

小野篂は朝廷の参議を務めながら、六道珍皇寺の井戸を使って冥途に通っていました。
地獄の閻魔庁を司る閻魔法王の補佐役として通いその逸話も伝えられています。
ある時、右大臣・藤原良相が病で命を落とし冥界における処遇を決めるため閻魔庁に連れて来られました。すると、生前の行いを審査する冥官の中に、篂が居りました。

そして篂は、以前自分が罪を問われた時、良相が助けてくれたことを他の冥官に告げ、現世に戻れるよう計りました。
無事蘇った藤原良相が朝廷にいた小野篂に話しかけると「先年のお礼をしたまで。私のことは秘密にしてほしい」と言いました。
六道珍皇寺の閻魔堂に安置される閻魔法王像は、作り手を小野篂とする説があります。それはあまりにも憤怒の形相が生々しいので実際に合った者しか造れない・・・。とのこと。

寺の東側一帯は、鳥辺野(とりべの)と呼ばれる都の葬送地でした。亡骸は洛中を出て鴨川を渡り、鳥辺野へ至る道筋を通って葬送されたことから、この世に最後を告げる場所が鳥辺野で、その入口にあたる六道珍皇寺の辺りを「六道の辻」と呼びました。
六道とは「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上」の六つお迷い、苦しみの世界のことで、人間は生前の行いに応じて、死後いずれかの世界に生まれ変わると考えられていました。都人は六道の辻をこの世とあの世の境目で冥界にもっとも近い場所と思ったのでしょう。

余談だが、「子育て幽霊」「飴買い幽霊」とも言うが、六道珍皇寺の近く(六波羅蜜寺との間)に幽霊に飴を売ったとする飴屋「みなとや」が現存(みなとや幽霊子育飴本舗)しており、「幽霊子育飴」を販売している。当時の飴は水飴のようなもので現在は固形で売られている。
飴に添えられた由来書によれば、幽霊の子どもは六道珍皇寺の僧侶になったという。

六道珍皇寺(京都市東山区大和大路通四条下る四丁目小松町595
みなとや幽霊子育飴本舗(京都市東山区轆轤町

知恩院

知恩院京都の七不思議と聞いて思い浮かぶのが「知恩院の七不思議」です。知恩院は法然上人を開祖とする浄土宗の総本山です。知恩院に伝わる七不思議は伝記でありながらも仏教の教えそのものです。歩くと鶯が鳴くような音が出る「鴬張りの廊下」は、その鶯の鳴き声が「法(ホー)聞けよ(ケキョ)」とも聞こえます。

そして、境内の山側一番奥に濡髪大明神(ぬれがみだいみょうじん)という祠がひっそりと祀られています。ここには七不思議のひとつ「忘れ傘」についての伝説があります。

御影堂の工事が終わったある大雨の夜、当時の住職であった霊厳上人が檀信徒に向けて説法をしていると見慣れぬ河童頭をした童子がいることに気がついた。童子の頭は水をかぶったようにずぶぬれでした。その童子の正体は、御影堂の建設で住処を追われた白狐でした。仕返しをしようと機会を窺っていましたが上人の説法を聞いて自分の過ちに気付き悔い改めたといいます。上人は、雨の中帰ろうとする狐に唐傘を貸して、これからお寺を守ってくれるようお願いした。翌日、その傘は御影堂の高いひさしの下に差し込まれていたという。この狐を知恩院の守護神として祀った祠が濡髪大明神です。


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知恩院(京都市東山区林下町400
濡髪大明神(京都市東山区林下町

三年坂

三年坂遷都後の大同3年(808年)の開通にちなみその名が付いた「三年坂」。清水寺の子安観音の参詣道となったことから「産寧坂」とも呼ばれます。
三年坂はあやかしの力が強い場所です。なぜなら、葬送地・鳥辺野の最果てにあたる場所。死臭の漂う暗闇のなか彷徨い歩いたのは、死霊や妖怪、鬼の類でした。

ここには平清盛が自分に取りついた怪鳥・鵺を退治しその坂の崖に葬ったのち塚を立てたという伝承もあります。そして天皇が病に伏せると勅使が塚の前で祈祷を行い妖怪の祟りを鎮めていました。塚は現在はありませんが地中に眠る妖怪たちは今も封じられているのか・・・。

京都市東山区清水寺門前三寧坂

法観寺(ほうかんじ)

法観寺三年坂の石畳を道なりに西へたどると、白壁や木目の美しい町並みから五重塔が見える。京と風情漂う料亭が軒を重ねる下り坂。どこから眺めても絵になる五重塔は法観寺の「八坂の塔」と呼ばれています。

創建は飛鳥時代、聖徳太子が如意輪観音(にょいりんかんのん)の夢のお告げを受け、中に仏舎利を納めた五重塔を建立したのが始まりです。

平安時代中期に浄蔵という呪術に優れた僧は特に蘇生の祈祷術を得意とし臨終の父・文章博士三善清行(みよしきよつら)や、光孝天皇の皇子をいったん蘇らせたという。そんな浄蔵が法観寺に住んでいたころ、境内の五重塔が傾きだすという異変が起こり、人々は不吉の前触れと騒ぎ出しました。そのとき浄蔵が祈り直しの祈祷を行ったところ、あくる日にはまっすぐの塔に元に戻っていました。浄蔵の法力により夜間に呪力を帯びた風が吹き塔を元に戻したと言われています。

この時の塔は、平安時代末期の清水寺衆徒と祇園神人の争いがもとで焼失したが、その後源頼朝により再興、現存は足利義教による再建築とされています。

京都市東山区八坂通下河原東入八坂上町388

豊国神社

豊国神社天下統一を夢見続けた豊臣秀吉は京の都に強い執着を持ち、さまざまな「足跡」を残しています。「聚楽第」とうい大豪邸や都を包囲した「お土居」の建設、さらに仏教勢力を制する目的で寺町を新たに作り大掛かりな都市改造を行いました。
その旺盛な野心も老いとともにコントロールできなくなり、茶の湯の師匠千利休に切腹を命じ、甥の秀次を一家もろとも処刑にしたり、中国征服をもくろみ朝鮮出兵を敢行するも大敗を喫する失策を犯すなど。
権力の魔物に取り付かれ、心の闇を抱えて没した秀吉は豊国神社の神として京都に棲み続けています。

「耳塚」は豊国神社の門前にある。朝鮮出兵の際に討ち取った敵軍兵士の耳や鼻を削ぎ取り持ち帰ったものを葬った塚で、秀吉の意向で供養も行われた。
「お土居」は北野天満宮にわずかに残っています。
「寺町」は通り一帯にさまざまな寺院を移設・創建させて、都の中心部を防御する目的に集められたとも言われています。

京都市東山区大和大路通り正面茶屋町530

続きは、京都の魔界観光【洛西・洛南案内】へ


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