京都・洛中、円山公園や東山山麓にある史跡も、魅力的です。
文久3年6月、真木和泉ら長州藩超過激派による翠紅館会議から、謎の明保野亭事件、坂本龍馬暗殺の三日後に起こった、御陵衛士、伊東甲子太郎の謀殺など。
京都・東山山麓、その地に息づく幕末のエピソードは数多くあります。
京都に息づく幕末ゆかりの史跡紹介を、エピソードをまじへてご案内していきたいと思います。
翠紅館 ー尊皇攘夷派の集会ー
東大路通りの東山安居から一つ南の交差点。東山山麓に続く坂道がある。
大きな鳥居をくぐって坂道を上がる。霊山護国神社への参道です。
二つの鳥居をくぐって右側に料亭「京大和」がある。
幕末のころは「翠紅館」とよばれる西本願寺大谷家の山荘でした。
その翠紅館の茶室「送陽亭」は、その名のとおり夕日が大変美しく現在も保存され、座敷として利用されています。
安政のころは、後の西郷隆盛と入水して死ぬ勤王僧月照も住んでおり、そこには梅田雲浜らが訪れていました。
文久3年6月17日、送陽亭に、御所の急進派公卿の集まりである学習院に出入りする志士たち、いわゆる学習院党の面々が顔をそろえた。
超過激派の真木和泉の提唱する御親征論「長州はすでに攘夷を実行したが、将軍のも徳川諸藩にも何の行動も見られない。この上は天皇自ら御親征にたっていただき攘夷を決行してもらおう。そして、そのまま討幕になだれ込もう」という計画が話題となりました。
翠紅館会議といわれるものです。
ここから、8月13日、大和行幸の発令、攘夷祈願の行幸が行われるたが、水面下では阻止の動きも進んでいました。
そして、8月18日、会津、薩摩連合側は、深夜に全公卿の参内を止め、公武合体派の藩主を集め、後に、長州藩を御所から締め出し、三条実美ら急進派公卿7人を長州へ都落ちすることとなる「8月18日の政変」となり、一年後に禁門の変へと長州藩の悲劇へと続きます。
清龍寺
翠紅館跡と東大路通りのちょうど中間、高台寺の表門が建つ南側に清龍寺というお寺があります。本尊は、香木の伽羅の木で作られた平安時代の観音菩薩。境内のある念仏石をたたくと金属音がします(寺の説明では、世界第2位の大きさの隕石らしい)。
この清龍寺には維新志士で清水寺の寺侍、近藤正慎の顕彰碑とお墓があります。
安政5年9月、西郷隆盛と勤王僧月照が京都を脱出。京都で月照と行動を共にしていた近藤正慎は、西町奉行所に引き立てられ月照の行方を問われ拷問を受けた後、自分の舌を噛み切り、頭を牢の壁にぶつけて絶命しました。
清水寺には、「舌切り茶屋」と「忠僕茶屋」の二軒の茶屋があります。
舌切り茶屋は近藤正慎亡き後、残された妻子のために清水寺が参道に茶屋をださせたものです。
忠僕茶屋は月照の下僕であった大槻重助が、月照死後京に戻り清水寺の許可を得て出した茶屋です。
明保野亭 -土佐と会津の藩の名目-
幕末期、円山から清水にかけての東山山麓には料亭がたくさんありました。
周りも閑静なため志士たちの密議によく使われた「明保野亭」もその一つです。
元治元年6月10日、池田屋事件の直後、長州系の過激志士たちを徹底的に取り締まろうと新選組は浪士の情報を探っていました。そこに、明保野亭での浪士集会の情報が入りました。
新選組伍長原田佐之助が隊士10名を引き連れて出勤。守護職からも7名駆けつけた。
抜刀し部屋に飛び込むと、中に居た侍一人が驚いて庭に飛び出そうとするところを会津藩士柴司が後ろから槍で一突き、取り押さえました。
直後に相手が「拙者は土佐藩士の麻田時太郎、この理不尽は何事」と名乗り、確認が取れたため、とにかく麻田を手厚く介抱して土佐藩邸まで送り、改めて使者が謝りに行ったが門前払い、翌日も門前払いで、事態は深刻になってきました。
翌日朝、会津の柴が切腹し、早速、土佐藩に柴の死を報告、検死をと申し入れたが、土佐藩の麻田も昨夜自刀したという。双方これで水に流そうということで決着しました。
柴、麻田ともに、大きくなってしまった騒ぎの責任を取らされた形でした。
明保野亭のあった場所は現在、料亭「坂口」の裏あたりといわれています。
高台寺月真院 -伊東甲子太郎-
霊山護国神社の参道を上り途中を北へ曲がると、高台寺への道に入る。そこは「ねねの道」と呼ばれる道で円山公園の方に繋がっています。
高台寺は豊臣秀吉の正室北政所が秀吉の冥福を祈り慶長10年に建立しました。
その塔頭、月真院は元和2年に創建、山門が高台寺への道に面しているので人通りは多いのですが、「御陵衛士屯所跡」と書いた石碑を見、駒札を読んでも「あまり知らない名前」と通り過ぎます。
御陵衛士は、慶応3年6月8日、新選組の伊東甲子太郎が隊士16人を連れて、泉涌寺の天皇陵に埋葬された孝明天皇をお守りするとして、新撰組を離脱して結成されました。
結成後、ここ月真院に屯所を設け、高台寺党とも呼ばれていました。
実はもともと尊皇攘夷論者であった伊東が、しだいに佐幕化していく近藤の新選組と袂をわかつための手段でした。
思想の相違がありながらなぜ伊東が新選組に入ったかは不明だが、彼の行動は勤王派志士に近い、16人の中には、攘夷論者の藤堂平助なども含まれている。
御陵衛士の活動費用は薩摩藩の援助を受け、雄藩(勢力の強い藩)をまわってさかんに勤王を説いていました。
慶応3年11月18日、伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋で待ち伏せをしていた新選組に謀殺され、さらに伊東の遺体を引き取りに来た多くの同志も、新選組隊士によって斬られ、御陵衛士隊の活動は終止符を打った。
○京都に息づく幕末ゆかりの史跡「武市瑞山先生寓居之跡」「岡田以蔵の刀痕」「土佐稲荷神社」他 編→
○京都に息づく幕末ゆかりの史跡「寺田屋事件」「大黒寺」「伏見薩摩藩邸」編→
○京都に息づく幕末ゆかりの史跡「金戒光明寺」「会津墓地」「京都守護職屋敷跡」編→
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