幕末の治安が悪化した京都を守ろうと、近藤勇、土方歳三が中心となって結成された「新選組」。数々あるエピソードは伝説となり京都・鳥羽伏見の地では今も人気スポットとして多くの人が訪れます。
今回は、京都の南部の伏見・鳥羽、ファンを魅了すゆかりの地として点在します。
そんな京都、伏見・鳥羽の新選組ゆかりの地をご紹介します。
鳥羽離宮跡公園、鳥羽伏見戦跡碑
慶応3年10月14日に将軍・徳川慶喜によって行われた大政奉還により幕府自体がなくなったため、薩摩による「倒幕」の大義名分は消滅したことになりました。
しかし、旧徳川家の影響力をそぐために動き始めた攘夷倒幕派浪人を止めることはできず、江戸市中で挑発行為を繰り返しました。
この動きはさらにエスカレートし、当時江戸市中取締役に任じられていた庄内藩・酒井家への発砲事件と、12月25日の庄内藩による攘夷倒幕派浪人を匿っていた薩摩藩邸への焼き討ち事件へと発展します。
これにより、慶喜の周りでは「討薩」の動きが顕著になり、明くる慶応4年1月1日「討薩ノ表」をしたため、朝廷に判断を仰ぐことになります。
1月3日、朝廷へと向かった先遣隊は鳥羽街道で新政府軍と相対することとなり、押し問答の末、小枝橋で起こった一発の銃撃を契機に戦闘が始まりました。
この動きを経て伏見奉行所に陣取っていた新撰組の元にも、間もなく御香宮神社からの砲弾が降り注ぐことになります。
開戦地となった小枝橋は、平成14年に撤去されましたが、千本通と城南宮道の交差点に小さな石碑が残されています。
現在の鳥羽離宮公園にも、薩摩藩の砲台が設けられていました。
そのため一帯は、鳥羽伏見の開戦地であると同時に激戦地にもなりました。
「鳥羽伏見戦跡の碑」の北西側の民家には、今も当時の弾痕が残されています。
伏見奉行所跡碑
慶応3年12月13日、会津藩の命を受けた新選組は、伏見方面の治安維持の名目で伏見奉行所へ駐屯することとなります。12月16日には伏見奉行所に入り、近藤勇を隊長に総勢150名が伏見の警護にあたることとなりました。
12月18日、二条城で行われた軍議に出席した近藤勇は、伏見奉行所へ帰る途中に伏見街道の墨染で狙撃され、肩を撃たれて重傷を負うという事件がありました。
この狙撃事件で近藤は、肺結核を患っていた沖田総司と共に大阪へ下り、以後の新選組の指揮は復調であった土方歳三が執ることとなります。
鳥羽街道・小枝橋で始まった銃撃戦は、新政府軍が放った砲弾が旧幕府軍の大砲に命中し大爆発を起こしたと言われています。
その大音量は、鳥羽からほど近い伏見にも聞こえたことでしょう。
それを契機にほどなくして、伏見奉行所も薩摩軍からの砲撃を受けることになります。
京都から落ち延びた会津藩と新撰組が伏見奉行所に立てこもっていました。
表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新選組を京町筋に配備し応戦しましたが、大山巌による御香宮神社からの砲撃の前に1月3日中に伏見奉行所は炎上、撤退を余儀なくされています。
当時の伏見奉行所の面影は、今はほとんど見つけられることはできず、団地内に小さな石碑を残すのみになっています。
御香宮神社、伏見の戦跡碑
御香宮神社は鳥羽伏見の戦いにおける新政府軍(薩摩藩)の本営となりました。
鳥羽伏見の戦いが始まったのちは、ここに置かれた砲台から旧幕府軍の本営であった伏見奉行所へ向かって砲撃が行われました。
伏見奉行所から300メートルほど離れた高台に位置したこの位置からの砲撃は非常に有効で、砲弾は奉行所を炎上させ、新選組をはじめとした旧幕府軍は徹底を余儀なくされ、市街戦へと持ち込まれました。
二番組隊長である永倉新八は、島田魁、伊藤鉄五郎など10名の配下とともに、重い甲冑を脱いで身軽となった状態で、抜刀して 突撃する「決死隊」と称して御香宮神社の薩摩本営に向けて斬り込みをかけ、あと少しでたどりつくところまで行きますが、戦局を変えることができぬまま圧倒的な火力の前に撤退させられています。
実際に訪れてみますと、鳥羽から伏見一帯を見渡せる高台で、当時を思い起こせば戦況を把握するのにはうってつけの立地であったことが分かります。
ここには佐藤栄作首相筆の「明治維新伏見の戦跡」碑が奉納されており、往時をしのんでいます。
この神社に保存されている、「戊辰戦之役東軍伏見鳥羽淀八幡ニ於テ戦死及殉難者人名簿」には、宮川数馬、和田重郎などの新選組隊士の名が残されています。
魚三楼 弾痕
城下町である伏見は、敵から見通せないように工夫された街路がいくつも残っており、L字路、T字路がいくつも組み合わさった「遠見遮断」と言われる構造になっています。
そのため、鳥羽伏見の戦いでは見通しの悪い街路を挟んで激しい市街戦が繰り広げられ、沿道の家屋の多くも戦災に遭いました。
魚三楼の表格子には当時の弾痕が生々しく残っており、旧幕府軍が放った砲弾と一致すると言われています。
現在も残されている「両軍伏見市街戦概要図」では、この京町通りの南側に新選組が布陣していたといわれており、もしかしたら、新選組の残した弾痕かもしれません。
伏見奉行所を撤退した旧幕府軍は、そのような街並みを利用して散発的な市街戦に持ち込みました。このとき最も勇敢に戦ったといわれるのが、土方歳三率いる新選組と、林権助率いる会津砲兵隊だったと言われています。
翌4日には鳥羽街道富ノ森陣地まで前進しますが、火力に勝る新政府軍に圧された旧幕府軍は、結局淀まで撤退することとなります。
この魚三楼、戊辰戦争当時は薩摩藩の炊き出しを行っていたとも言われています。
250年続く伏見の老舗料亭で、そのころを思い起こしてみるのもいいかもしれません。
酒蔵の町、伏見
寛政3年(1791)創業の松本酒造をはじめ、伏見の町は酒蔵と倉庫、煙突が沢山見受けられます。
古代より、伏見は「伏水」といわれるほど上質でまろやかな地下水で知られ、酒造りが隆盛しその伝統は現在にまで受け継がれています。
伏見城の外堀・濠川(ほりかわ)沿いの柳並木道に白壁土蔵の酒蔵。酒造りの最盛期、蔵の近くを通ると、米を蒸したり、もろみが発酵する香りが漂いう「月桂冠大倉記念館」は、貴重な伏見の酒造りと日本酒の歴史を紹介、利き酒もできます。
この伏見界隈の酒蔵と倉庫群は「伏見の日本酒醸造関連遺産」として近代化産業遺産に認定されています。
お土産に、「プラムワイン」や「酒かす」はおすすめです。是非にお試しください。
伏見の酒を、新選組や幕末の志士たちも飲んだのだろうかと思うだけで、わくわくしてきますね。
月桂冠大倉記念館(京都市伏見区本材木町)
○私の京都散策「壬生の新徳禅寺、前川邸、八木邸、不動堂の新選組壬生屯所めぐり」→
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