天正元年、足利義昭を京から追放し足利氏の室町幕府を終焉させ、念願の天下布武を成し遂げた織田信長は。その後、朝倉・浅井連合軍、石山本願寺、甲斐の武田と敵対勢力を倒し天下人への道を着々と歩んでいた。
天正10年6月2日、信長の宿所である本能寺を囲んだ明智光秀軍は、一斉に攻撃を始めた。
わずかな従者を連れただけの信長は、光秀の大軍に抗すべも無く、本能寺に火をかけ、自害して果てた。
人間50年。下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。
歴史上あまりにも名高い本能寺の変を始め、さまざまな伝説を作りながら織田信長は京の街に数々の足跡を残しています。
その織田信長終焉の地本能寺を始め信長公の歴史の足跡を訪ねてみました。
○ビジネス街で見つける旧跡、「南蛮寺跡」
JR京都駅から京都市営地下鉄烏丸線に乗って2駅、「四条駅」で下車。
京都のメインストリート四条烏丸の交差点を北へ烏丸通りを2筋目蛸薬師通りを西(左)へ。
1筋目の室町通りを越えて少し歩くと、北側(右手)のビルの角にひっそりと建つ「南蛮寺跡」の石碑と駒札。
信長公の保護よって信者が増加し、信者の間では珊太満利亜上人(さんたまりあしょうにん)の寺とも呼ばれていたようです。
小説では、本能寺からこの南蛮寺までの間に抜け穴があったとか・・。距離的にはありえると思います。
☆南蛮寺
イエズス会宣教師ヴィレラが永禄4年に石碑北側の姥柳町に一軒の長屋を購入、礼拝堂を設けた。その後天正4年、信長公の庇護のもと、京都所司代村井貞勝の援助と高山右近ら信者の協力を得て再建され、献堂式のミサが行われた。
京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心地をなりました。方4町の寺域をもち、和風3階建ての本堂は「洛中洛外名所扇面図」にも描かれている。そ
の後、天正16年、豊臣秀吉の伴天連(ばてれん)追放令にともない破却されました。
○歴史を揺るがした舞台、「本能寺跡」
南蛮寺跡から同じ蛸薬師通りを5分程度西に向います。
3筋目にきれいな建物の角に「本能寺跡」の石碑が建っています。
堀川高校とデイサービスセンターの建物でした。きれいな建物の周りを進むと正面入り口の横に大きめの新しい石碑と解説が書かれています。
現在は、豊臣秀吉の時代に移された場所にありますが、天正10年ころは蛸薬師通りの北で、西を油小路通り、東を西洞院通りに挟まれた一帯でした。
織田信忠が居た二条城も確かに近く、光秀奇襲の光景が眼に浮かぶようです。
☆本能寺跡
初め本応寺と号し、応永22年、油小路高辻に創建され後に本能寺と寺号を改め大宮六角に移転。天文法華の乱によって焼討にされ、他の法華宗寺院ともども一時京都を追放されました。
その後、本能寺は天文16年に帰洛。西洞院蛸薬師北西一帯に再興され、天正年間に織田信長の京における常宿となりました。
天正10年、本能寺の変の後同地での再興を試みましたが、豊臣秀吉の京都改造によって、京都市役所南(寺町通御池)の現在地へ移されました。
○船岡山の森に覆われた神社、「建勲神社(けんくんじんじゃ)」
本能寺跡から蛸薬師通りを西に、堀川通りを横断して北行きのバス停へ。
京都市バス101系統「北大路バスターミナル行き」に乗り、約30分。
大徳寺前で下車。ここからは「建勲神社」「大徳寺塔頭総見院」に向かう。
最初に「建勲神社」を訪ねたい。
バスを降りて、北大路通りを南へ横断し、西へ。建勲神社前の看板がある通りを南(左)へ約10分歩くと、右手に建勲神社の表参道大鳥居が見えてくる。中へ進むと長い石段を約100段登って建勲神社の境内に到着。
「敦盛」の句が刻まれた石碑の前で、息を整え御手洗で清めたあと、最後の石段を登ると拝殿があります。
奥の本殿は自然の聖地らしく木々に囲まれ、静まり返っています。
境内は歴女の方が沢山折られ、御朱印には列が・・・。ゲームキャラクターの等身大もお目見えして、一緒に写真が撮れます。
信長公はどこまで行っても人気物ということでしょうね。
☆建勲神社
平安京・四神相応の玄武にあたる船岡山に鎮座し、信長公とその子信忠を祀っています。
本能寺の変のあと、豊臣秀吉が船岡山を信長の霊地にしたことに始まり、明治2年に明治天皇が信長を祭神とする神社を創建、その後信忠が配祀されました。
(北区紫野北舟岡町49 境内拝観自由)
○信長一族の墓石が並ぶ、「大徳寺塔頭 想見院」
建勲神社の急な石段を下り、元来た道を戻ります。
大徳寺は臨済宗大徳寺派の本山で、文明6年、一休宋純が堺の豪商などの協力を得て文明の乱で焼亡した伽藍を再建しました。
北大路通りに面した南門から入ると境内は広く、境内の東端の北よりに勅使門、山門、仏殿、法堂などの伽藍が並び、その周辺三方に塔頭群が広がります。
天正17年、千利休が檀越となって完成させた2層楼閣の山門「金毛閣」は、楼上に掲げられた利休の木像を秀吉にとがめられて死に追い込まれた事件で有名です。
目当ての「想見院」を境内見取り図で確認して奥へ向かいます。
大徳寺では基本的に常時公開されている塔頭は4寺院だけで、総見院も普段は入ることができません。毎年、10月から12月までの間は「秋の特別拝観(有料)」で中に入れます。訪れる前に日時をご確認ください。
☆大徳寺塔頭 想見院
天正10年に秀吉が織田信長の菩提を弔うため古渓宋陳を開祖に建立。ここで行われた信長の葬儀で、秀吉が信忠の遺児三法師を抱き、後継者然と振舞った話は有名です。
木造織田信長坐像を所蔵し、墓地には織田家一族の7基の五輪石塔が並んでいます。
境内前庭のワビスケは秀吉寵愛のツバキとして知られています。
○寺の多い界隈にたたずむ、「阿弥陀寺」
次に、織田信長の本廟があるという、寺町にある阿弥陀寺へ向かいましょう。
バス停、大徳寺前から東へ205系統のバスで約20分、葵橋西詰で下車。
出町商店街のアーケードをくぐり、西へ突き当りが、寺町通りです。ここを右(北)に曲がり、真っ直ぐ進みます。
寺町通りは地名の通り、お寺が並びます。「日蓮宗 本満寺」「浄土宗 仏陀寺」「浄土宗 十念寺」と続き、4つ目に「阿弥陀寺」があります。
お寺の門の前に「織田信長公本廟」の石碑と駒札。門をくぐると石畳が続きます。本堂をお参りして、本堂左側に、墓地への道が続きます。
墓地の正面に信長公と信忠公のお墓が並んで建ち、その横には森蘭丸・坊丸・力丸のお墓が今でも親方のお側に眠っています。他の家臣のお墓も、今もお側から離れずに回りを囲んでいます。
右に少しはなれたところに、開祖清玉上人の廟もあります。
ここには、歴女も見当たらず、静かに手を合わせることができます。
毎年6月2日「信長忌」(信長公木像、位牌ほか寺宝公開)が行われます(この間は有料)。訪れる前に日時をご確認ください。
☆阿弥陀寺
織田信長公に深く帰依され、また正親町天皇に東大寺勧進職を任ぜられた清玉上人開祖の浄土宗寺院です。
本能寺の変の際、清玉上人は信長公救出に駆けつけるも虚しく、遺骸を炎にくべ隠し、寺へ持ち帰った。
その後明智光秀に許しを得て、信忠公ならびに本能寺、二条城で落命した森蘭丸他110余名とともに葬りました。
(上京区寺町今出川上ル 境内拝観自由)
○今も参拝者が絶えない、現在の「本能寺」
最後に現在の本能寺へ。阿弥陀寺から、元来た道、バス停に戻り、「葵橋西詰」バス停から205(または37)系統「四条河原町」行きのバスに乗り約10分。京都市役所前にで下ります。そこから御池通を西へ約3分ほど寺町通りを南に曲がれば本能寺です。
商店街のアーケードに埋もれて見難いですが、門の前で沢山の人がカメラを構えていますから、直ぐにわかります。
門をくぐって右手には「宝物館」があり、信長公の遺品がたくさん展示されています。
境内を真っ直ぐ進むと正面に本堂があります。そんなに大きな本堂ではないですが、信長公ゆかりの寺ということか、沢山の参拝者でにぎわっています。
右手奥に「織田信長公御廟」と書かれています。大きな供養塔です。
☆本能寺
文禄元年、豊臣秀吉の寺町造営にともない、現在の場所に移りました。
元治元年の禁門の変ちともなう大火で、大半を焼失しました。
本堂は昭和3年に再建されたもので、寺町通りに面した総門は明治13年に恭明院の門を移築したものです。
(中京区寺町通御池下本能寺前町 境内拝観自由、宝物館は有料)
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