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私の京都散策「源氏のゆかりの地」下京区限定で巡って。

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「源氏のゆかりの地」下京区限定で巡って

平安時代、王朝文化全盛期のころ、源氏は白川法皇、鳥羽上皇など、天皇に仕える小さな武将集団でした。建久3年、源頼朝が鎌倉幕府を立ち上げるまで、ここ京都の地には源頼義以来、源氏の居邸等のゆかりの地も沢山残されています。

今回の散策は、そんな源氏のゆかりの地を下京区限定で巡ってみました。

源氏のゆかりの地MAP

源氏のゆかりの地MAP

1.牛若丸と弁慶の像

五条大橋

JR京都駅から市バスで10分「河原町五条」下車、東へ直ぐ。五条通りの交差点の信号の中洲に像が建っています。

薙刀を持つ弁慶と笛を片手に橋の欄干に立つ牛若丸が表現されています(御所人形師・岡本庄三氏作)。

五条大橋は五条通の鴨川に架かる橋で、牛若丸と弁慶が対峙したエピソードは有名です。
橋の西詰めには牛若丸と弁慶の像が建っています。

ただし、現在の五条通は平安京の六条坊門小路にあたっており、これは豊臣秀吉のときに方広寺大仏殿の造営にともない平安京の五条通(現、松原通)から大橋を現在の場所に付け替えたが、その後も橋の名前はそのまま「五条橋」としました。

京都市下京区西橋詰町

2.神明神社

神明神社

五条河原町から北へ、綾小路通りを西に進む、徒歩約30分。北側に神明神社があります。

ここは、平安時代末期、近衛天皇がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通の屋敷跡で「四条内裏」または「四条東洞院内裏」と言われました。

この邸内にあった鎮守の社が神明神社で、創建年代は明らかではないが天照大神を祭神とし、今日まで人々の崇拝の社となっています。

源頼政が、近衛天皇の時代、都を騒がせた頭が猿、尾が蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥を退治するにあたって祈願し、見事に退治できた御礼として、この時に使われた弓矢の「やじり」2本を奉納しました。

京都市下京区綾小路通高倉西入

3.五條天神社

五條天神

神明神社から綾小路通りをさらに西へ、少し大きめの通り、西洞院通りを南へ、約10分で、五条天神社に着きます。

ここは、平安遷都の際、大和国から移され「天使の宮」と称しましたが、後鳥羽天皇により「五條天神社」と改められました。

この社の西側をはしる東中筋通りの通称「天使突抜通り」は、この境内を突き抜けて通りがつくられたことにちなんでいます。

後醍醐天皇のとき近くのカキの木に仏があらわれたちか、文覚が流罪になるとき鳥居の下に黄金を埋めたといって船頭をあざむいたとか、小さな神社ですが伝説は多くあります。

また、「義経記」は、牛若丸と弁慶がここの境内で始めて出会ったことを載せています。

平安京では、松原通りは五条大路にあらり、西洞院通りに川が流れてたことから、納得がいく話でしょう。

京都市下京区松原通西洞院西入

4.若宮八幡宮

若宮八幡社

五條天神社から西洞院通りをさらに南へ、花屋町通りを左へ一筋。

若宮通花屋町を約20m北に上がったところに若宮神宮があります。

後冷泉天皇の勅願により源頼義が天喜元年に創建。六条八幡、左女牛井八幡とも呼ばれ、源氏累代によって長く崇敬を受け、室町将軍にも保護されました。

応仁・文明の乱により焼失し、豊臣秀吉時代、慶弔10年に東山五条坂に移転しましたが、若宮八幡宮社の旧鎮座地にも名残をとどめる神社です。

京都市下京区若宮通花屋町

5.左女牛井(さめがい)之跡

左女牛井

若宮八幡宮から花屋町通りを西へ、堀川通りに出たら、西本願寺です。

西本願寺を約150m北にあがった西側に、「左女牛井之跡」の碑があります。

「左女牛井」は「醒ヶ井」とも書き、西洞院三条の柳水、北野の利休井などと並び、京都の名水の一つに数えられていました。

この辺りは、源頼義以来、義家、為義、義頼、義経までが拠点とした源氏六条堀川館内
京の名水として平安時代より知られ源氏の邸、六条堀川館の中にとりいれられていました。

室町時代には南都の増村田珠光がこの畔に住み茶道を興し足利義政も来遊したという江戸初期元和2年5月織田有楽斎はこれを改修しました。

内径2尺4寸の円井戸でした。その後、天明の大火で埋もれてしまいましたが、寛政2年、藪内家六世竹陰によって補修され、その碑が七世竹翁によって建てられていたが円井戸碑とともに第二次世界対戦最末期の民家の強制疎開とともに撤去されました。

京都市下京区堀川通五条下る

6.源為義公塚

顕彰碑-供養塔2

顕彰碑-供養塔

堀川通りを真っ直ぐ南へ、西本願寺を通り過ぎ(お参りをしましょう)七条通りまで行き、西に向かいます。

梅小路公園を過ぎて約200m。商店街の一角に「清光山権現寺」と書かれた碑があります。

「源為義公塚」は下京区の浄土宗のお寺 権現寺の門前にひっそりと建っています。

「六条判官」とよばれた清和源氏の棟梁であった源為義を供養する塚です。
為義は、白川法皇、鳥羽上皇に仕えますが、検非違使を度重なる不祥事を理由に辞任。

その後、藤原忠実・頼長父子に接近し、勢力を回復しますが、またも解官となります。

そして、保元の乱で崇徳上皇方についた為義は、後白河天皇方の平清盛、為義の長男 源義朝らに敗れ、義朝の家臣によって朱雀野で処刑されました。

六条判官為義公塚

六条判官為義公塚

権現寺は一般公開されていませんので、そっと見学するしかありません。

門前の源為義公塚も敷地内には入れませんので、ご注意ください。

京都市下京区朱雀裏畑町10

今回の散策は、少し地味な場所ばかりですが、レアな歴史に触れられる機会だったと思います。

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