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京都の魔界観光【洛北案内①】

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京都の魔界観光【洛北案内①】

京の都で「魔界」という言葉をいうとき、そこには特別な思いが含まれる。怪奇幻想にみちた物の怪の跡、恨みを残して死んだ物の慰霊を祀る鎮魂の寺社、人々の憎悪の念にまみれた呪いの生霊の俗伝。京都「魔界」にまつわる伝承の数々。
今回は洛北の地にまつわるお話をご紹介します。

赤山禅院(せきさんぜんいん)

赤山禅院慈覚大師円仁の遺志を受け、安彗僧都が創建した比叡山延暦寺の別院。
比叡山の麓、修学院離宮北側にある、一風かわった寺院です。
まず、比叡山延暦寺の別院でありながら参道に大鳥居があり、さらに本尊に赤山明神とうい神が祀られています。神仏習合の珍しいお寺です。明治初年の神仏分離令が下るまでは寺というより延暦寺の鎮守社であったのでしょう。
ここは、ほかの寺院とは少し異なった独自の信仰のかたちを継承し、延暦寺との関わりや立地条件から、ある特殊な役割を担っているようです。
赤山禅院に祀られる赤山明神は「泰山府君(たいざんふくん)」という別名をもち、泰山府君とはすなわち陰陽道の祖神で、人の生死や幸福、魔除け、出世など運命全般を司る力をもった神です。
漢から唐の時代の中国における、泰山の麓のどこかに人の生死や功罪を審判しそれに応じた懲罰を与える冥界があるという民間信仰は日本に伝わり、陰陽道に取り込まれていき、陰陽師は病気や快癒や延命の祈禱を「泰山府君祭」と名付けて泰山府君の巨大な力にあやかろうとしていました。

さて、赤山禅院の本尊を祀る本殿の脇に「皇城表鬼門」と書かれた札が掛かっています。つまり、ここは鬼門から侵入する鬼を追い払い、平安京をまもる働きをもつ寺院なんです。
拝殿の屋根の上には、御幣と鈴を手にした一匹の猿(もちろん作り物)がいます。この猿は鬼門封じに欠かせない主役である。「猿」とは「去る」をかけた、魔除けの意味合いがあります。
赤山禅院2そして京都にはこの魔除けの猿に仲間がいます。京都御所の鬼門の角「猿ヶ辻」、寺町今出川上がる「出雲路幸神社(いずもじさいのかみやしろ)」にも猿が鎮座しています。これらを結んでみると、三ヵ所は北東(鬼門)の方向に一直線に並び、さらに赤山禅院から北東へ線を結ぶと比叡山一帯を守護する日吉大社に到達する。
日吉大社の神の使いは猿です。これにより鉄壁の猿の守護ラインが完成しました。

京都市左京区修学院開根坊町18

貴 船

貴船1貴船神社は平安京の水の神として古くから祈雨の信仰を集めています。
鴨川の水源の一つである貴船川の澄み切った流れは、人々が古来ここで恵みの雨を乞い農作物の豊かな実りを祈願していました。
水の神はまた恋の神でもあり、恋愛歌人、和泉式部が夫との不和に悩み、貴船に詣ででその愛を取り戻したという故事は有名です。
しかし、誰かの恋が叶う=別の恋が破れるということで、貴船の地には、女の呪いについての伝承もあります。
下京に住むある女が、自分を捨てた男を呪いその恨みを呪詛の力によって晴らそうと、貴船の地で丑の刻詣りの願掛けをした。女は藁で人形を作り恨みのたけをこめて毎夜それを釘で木に打ち付けた。草木も眠る丑三つ時、顔に朱をさし身体には丹を塗り、口に松明をくわえ、三本のロウソクを灯した鉄輪(かなわ)を頭にまいた女が恐ろしい形相で洛中から貴船まで走る抜ける。その姿は夜叉のようであり、生きながら鬼女になった哀れな女は恨みを果たさぬまま自宅の井戸のそばで息絶えた。下京区堺町通りの路地裏には、いまも「鉄輪井(かなわのい)」と呼ばれる井戸が残っています。女の不憫に思った人たちが鉄輪で塚を築いたのが由来です。
貴船の地は男女の恋愛、嫉妬の業火さえも飲み込む自然豊かなスポットです。

貴船神者社(京都市左京区鞍馬貴船町180

鞍 馬

鞍馬都人は鞍馬を「暗部(くらぶ)」または「闇部」と記し、うっそうと生い茂る木々に囲まれた昼なお暗いこの地を聖域として扱い続けました。
鞍馬山の中腹に朝野貴賎の信仰のを集めた鞍馬寺があります。宝亀元年(770年)唐招提寺の鑑真和上の弟子、鑑禎(がんてい)が鞍馬へ行く道中鬼女に襲われそれを助けたのが毘沙門天だった。そして鑑禎は、鞍馬山中の奥に毘沙門天を祀った。平安遷都後、藤原伊勢人がこの地を訪れ都の北を守る寺院として鞍馬寺を創祀しました。
鞍馬山には毘沙門天だけではなく、650年前の昔、人類救済を目的にこの地に護法魔王尊(サナト・クマラ)が降臨したとされている。鞍馬寺には、白い髭を伸ばし、その背に羽根をはやした姿の魔王尊像が祀られています。魔王尊は天狗に姿を変えて活動したと伝えられています。
宇宙より降臨した魔王尊はこの世の一切の悪を調伏すべく、鞍馬山の中のひときわ暗い山奥にある30メートル以上の大杉に依り憑いたといいます。人々はその大杉を畏敬の念で祀りました。(のちに台風で10メートルほど残し上部は折れてしました)
鞍馬山は戦いの神・国家鎮護の神である毘沙門天を祀っていることから、貴族・武将からの信仰が厚かったが、やがて民間への浸透してていきました。

鞍馬寺(京都市左京区鞍馬本町1074

惟喬神社(これたかじんじゃ)

京都の北にそびえる山々の一帯に平安時代前期の皇族・惟喬親王にまつわる伝説の旧跡が多くに残る。文徳天皇の第一皇子として高い身分を持って生まれた惟喬親王だが、生まれつき病弱で母親の後ろ盾も弱かったことから、王位継承は第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)に渡った。その後惟喬親王は出家し比叡山西麓の小野(現在の大原)、または惟喬神社が鎮座する雲ヶ畑へ移り住み、和歌や鷹狩りなどたしなみひっそりと暮らしました。
惟喬親王は魔の秘法を操る悪の化身として語り継がれてきた部分もあります。浄瑠璃や歌舞伎では、絶命した紀名虎を妖術を使い生き返らせ伴大納言とともに反逆に打って出る悪役の惟喬親王が登場する。朝廷の権力に追われた悲運の惟喬親王は果たしてどの姿が正しいかそれとも併せ持った人物だったのか。
都にまつわる貴族たちの恨みや怨念の物語は都を闊歩する「鬼」として伝えられている。

京都市北区雲ケ畑出谷町

続きは、京都の魔界観光【洛北案内②】へ

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